「信頼できない語り手(Unreliable Narrator)」は、物語の信憑性や解釈の問い直しを促す、文学的なギミックです。この記事では、信頼できない語り手の定義や特徴、具体例などを解説しています。余談ですが、現代の物語論、すなわちナラトロジー(Narratology)でも注目されています。20世紀後半の文学潮流であるポストモダニズム文学は、客観的真実への懐疑や多視点性の重視を特徴とし、〈信頼できない語り手〉の普及に大きな影響を与えたと言われています。ウィリアム・ゴールディングやアイリス・マードックといったイギリスのポストモダニズム作家の作品は、しばしば非標準的な思考を持つ登場人物や、物語を歪める語り手を通じて、物語の哲学的深みや比喩的な多様性を表現しています。
定義と特徴
「信頼できない語り手」という用語は、文学批評家ウェイン・C・ブース(Wayne C. Booth )が1961年の著書『フィクションのレトリック』(The Rhetoric of Fiction)で初めて提唱しました。ブースによれば、語り手が「作品の規範(作者の規範ともいえる)に沿って語ったり行動したりする場合は信頼できる」とし、「そうでない場合は信頼できない」と定義しています。そして、語り手が意図的であるか無意識的であるかを問わず、読者を惑わせることになります。
規範というのは、かしこまった言い方ですが、一般常識や公序良俗と言い換えることができます。語り手が嘘をついている場合、読者は内容を誤解することになるわけですが、嘘は常識的に許されませんので、規範に沿っていないといえます。ただ、状況によっては良い嘘というのもあるので、嘘が絶対に規範に背くとは言い切れません。このようなことも含めた言い表し方が作品の規範ということになります。また、「正義』などのように、対立する二者の信念において、どちらが正しいともいえないような場合、その作品に描かれている規範(すなわち正義)が、その作品においては正しいということになります。作者本人の考え方と、作品に登場する思想が必ずしも一致するわけではありませんが、作品の規範は作者の規範であると、多くの場合は認識されます。
では、具体的にどのような特徴があると語り手は「信頼できない」とされるのでしょうか。以下に主な特徴を挙げます。
- 物語内の矛盾
語り手が物語の異なる時点で矛盾する情報を提供する - 不誠実な動機
語り手が特定の側面を強く主張したり、自身を正当化しようとすることで、裏の動機が示唆される - 深刻な性格的欠陥
語り手が病的な嘘つき、精神疾患、あるいは極端な偏見を持っている場合 - 記憶の欠陥
語り手が詳細を覚えていない、あるいは記憶が曖昧であることを自ら認める - 他の登場人物からの矛盾する視点
他の登場人物が語り手の描写と異なる事実や解釈を示すことで、語り手の信頼性が揺らぐ - 作者の意図との乖離
語り手の道徳的、倫理的価値観が、作品の背後にある作者の意図や規範と異なる
タイプ分類
信頼できない語り手は多様な形態を取り、その分類は様々ですが、Hansen (2007) は、語り手の不信頼性を認識するための手がかりに基づいて以下の3つの主要な形態を提唱しています。
1. 内的ナラティブな不信頼性
Intra-narrational Unreliability
語り手が自身の語りの中で「おそらく」「〜と思う」「覚えていない」といった言葉の癖(verbal tics)を使うタイプです。自身の不確かさやバイアスを暗示します。これには、過度の自己弁護、話の脱線、曖昧な表現、矛盾する発言、選択的な記憶などが含まれます。
2. 間ナラティブな不信頼性
Inter-narrational Unreliability
これは、主に2つのケースに分けられます。
- 時間の経過による同じ語り手の不信頼性
語り手が過去の自分を不信頼な存在として回顧しながらも、現在の語り手の視点にはその変化が明確に示されない場合 - 他の登場人物との矛盾
別の登場人物が語り手の語る出来事や解釈と矛盾する視点を提供する場合
3. 間テクストな不信頼性
Inter-textual Unreliability
語り手が特定の登場人物の類型(character tropes)に当てはまることで、読者がその語り手を信頼できないと認識するタイプです。Riggan Jr (1978) は以下の4つの類型を挙げています。
- 無垢な者 Naïf:ナイフ
社会的経験や成熟度が不足しているため、周囲の状況や出来事の複雑さを完全に理解できていない語り手 - 狂人 Madman:マッドマン
精神的に不安定であったり、極端に感情的であったりするため、現実を歪んで認識し、語る語り手 - 悪漢 Pícaro:ピカロ
狡猾で自己中心的な動機を持ち、自身の行動や世界観を巧みに正当化しようとする語り手 - 道化師 Clown:クラウン
内部的・外部的対立を新しい視点で再解釈したり、自らを偽ったりすることで、読者を惑わせる語り手
その他、より一般的な分類としては、アルコールや薬物の影響による障害を持つ語り手、トラウマや精神疾患による心理的に信頼できない語り手、あるいは単に情報不足や他の誤った情報源に依存している無知な語り手などが挙げられます。
読者への影響
信頼できない語り手は、読書体験をより複雑で面白くします。というのも、読者は物語を受け入れるだけでなく、語り手の言葉の裏を読み、真実を組み立てるという能動的な行動を要求されるからです。このパズルのような要素は、物語に緊張感とサスペンスをもたらし、読者の批判的思考を促すこともありえます。
また、信頼できない語り手は、人間の認識の限界、真実の曖昧さ、そして自己欺瞞といった深遠なテーマを探求する手段としても機能します。語り手の視点を通じて、作者は登場人物の心理的葛藤や人間性の不完全さを鮮やかに描き出すことができます。
代表的な作品
多くの名作文学が信頼できない語り手を用いています。
- ウィリアム・ゴールディング『通過儀礼』(Rites of Passage)
航海日誌という形で語られる物語で、エドマンド・タルボットとコリー牧師という二人の語り手が同じ出来事を異なる視点から語り、読者に情報の信頼性を疑わせます - アイリス・マードック『黒衣の王子』(The Black Prince)
主人公ブラッドリー・ピアソンが語る物語ですが、複数の登場人物による「追伸」が彼の語りを矛盾させ、読者に真実を問い直させます - F・スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(The Great Gatsby)
ニック・キャラウェイは物語の観察者として客観的であろうとしますが、ギャツビーへの強い感情や自身の道徳的判断が物語の描写を歪めます - ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(Lolita)
ハンバート・ハンバートは自らを悲劇的な愛の主人公として描こうとしますが、読者はその巧みな言葉の裏に隠された彼の捕食的な本質を見抜くよう促されます - カズオ・イシグロ『日の名残り』(The Remains of the Day)
スティーブンス執事の回想は、自身の尊厳やプロ意識を保とうとする無意識の自己欺瞞によって、過去の出来事や主人の行動を歪めて描きます - その他: 『ゴーン・ガール』、『ライフ・オブ・パイ』、『ライ麦畑でつかまえて』、『時計じかけのオレンジ』、『アクロイド殺し』など、多岐にわたる作品でこの技法が使われています
書き方
作家が信頼できない語り手を作品に登場させるときに、おさえておきたい重要なポイントは以下の通りです。
- 語り手の最終目標
語り手が読者に何を信じさせたいのか、あるいは自分自身に何を信じ込ませたいのかを明確にします - 不信頼性の性質を明確にする
語り手が意図的に嘘をついているのか、それとも無意識のうちに現実を歪めているのかを把握します - 客観的事実と語り手の描写の差異
作者は「実際に起こったこと」と「語り手が語る物語」の二つのプロットを把握し、読者にヒントを散りばめる必要があります。最初から語り手が明らかな嘘つきであれば、読者はその物語に興味を失います。最初は信頼できると見せかけ、徐々に不信頼性の兆候を示していくことで、読者に驚きと考察の機会を与えることができます - テーマとの関連性
語り手の信頼性が、物語の主要なテーマ(例:真実、記憶、道徳、社会批評)とどのように結びついているかを考慮します