『夜歩く』は横溝正史氏による長編推理小説で、〈金田一耕助〉シリーズの第3作にあたります。その意外な結末や、戦後 の混乱期における妖異な雰囲気、露悪的な通俗性が高く評価され、根強いファンも多く存在するであろう一作です。この記事では、あらすじ、登場人物、ネタバレ、感想などをまとめています。
あらすじ
「私」こと探偵作家の屋代寅太は、大学時代の友人である仙石直記から奇妙な相談を受ける。直記によれば、腹違いの妹である古神八千代が佝僂(せむし)の画家・蜂屋小市を狙撃したという。八千代には以前から「汝、夜歩くなかれ」という夢遊病を指摘する手紙と、首のない佝僂の写真が送りつけられていた。
屋代は直記に連れられて小金井の古神家を訪れた。そこで、直記の父・鉄之進が日本刀「村正」を振り回して蜂屋に斬りかかろうとする場面に遭遇する。騒動がおさまった後、直記と屋代は日本刀を金庫に二重鍵で厳重に保管。そしてその夜、夢遊病の発作を起こした八千代が洋館を歩き回る姿を目撃することになる。
翌朝、洋館で首のない佝僂の死体が発見される…。
死体には八千代に撃たれたのと同じ銃痕があり、蜂屋の遺体と思われた。しかし、守衛の乳母・お喜多が、守衛も同じ傷を持っていたと主張し、死体の身元はわからなくなってしまう。
数日後、屋代は夢遊病の鉄之進が池の中から守衛の生首をみつける姿を目撃する。
蜂屋の行方が知れず、事件が膠着状態に陥る中、古神家の人々と関係者は避暑のため、旧領である岡山県鬼首村へ移動する。屋代も直記に請われて鬼首村へ向かう道中、風采の上がらない男・金田一耕助と出会う。
登場人物
- 金田一耕助(きんだいち こうすけ)
私立探偵 - 屋代寅太(やしろ とらた)
「私」、推理小説家で物語の語り手 - 仙石直記(せんごく なおき)
鉄之進の息子、屋代の友人 - 古神八千代(ふるがみ やちよ)
古神家当主・織部と後妻・お柳の娘。夢遊病を患う - 蜂屋小市(はちや こいち)
画家、佝僂。最初の犠牲者 - 古神織部(ふるがみ おりべ)
古神家先代当主、故人 - 古神お柳(ふるがみ おりゅう)
織部の後妻、八千代の母 - 古神守衛(ふるがみ もりえ)
織部と先妻の息子、八千代の異母兄、佝僂。二人目の犠牲者 - 仙石鉄之進(せんごく てつのしん)
古神家家老筋、直記の父。夢遊病者 - 古神四方太(ふるがみ よもた)
織部の異母弟 - お喜多(おきた)
守衛の乳母 - お藤(おふじ)
古神家女中 - 妙照(みょうしょう)
海勝院の尼 - お静(おしず)
古神家の座敷牢に閉じ込められていた、精神を病んだ女性
ネタバレ
真犯人は物語の語り手である「私」こと屋代寅太です。古神八千代は彼の共犯者でしたが、後に屋代によって殺害されます。
動機は、彼が戦地に出ている間に、恋人であるお静が仙石直記に凌辱され、その結果精神を病んでしま ったことへの復讐でした。屋代は直記をただ殺すだけでなく、徹底的に恐怖を与え、苦しめてから殺害しようと計画していました。
また、共犯者である八千代は、屋代にそそのかされていましたが、彼女自身も古神守衛を深く嫌悪しており、屋代に守衛の殺害を願っていました。
金田一は屋代の行動の矛盾、金庫の刀の血痕、お藤の証言、そして「Yashiro」の文字などから、語り手である屋代が真犯人であるという真相にたどり着きます。
- 叙述トリック
物語の語り手である「私」(屋代寅太)が実は犯人であるという、読者を欺く叙述トリックが用いられています - 顔のない死体と身代わり
- 最初の洋館で発見された首なし死体は蜂屋小市
- 池から発見された生首は古神守衛
- 竜王の滝で発見された八千代の首なし死体は実際にはお静の死体。八千代は身代わりとして殺害された
- 屋代は最終的に直記を殺害し、その首を落として自分が直記に殺されたように見せかける計画だった
- 蜂屋、守衛、八千代(お静)の首を切断したのは屋代自身(彼は戦争中に多くの首を切ったと語る)
- 夢遊病の偽装
八千代の夢遊病は、屋代と八千代が共謀して犯行時刻を偽装するための芝居。八千代のスリッパの血痕も、蜂屋殺害直後に屋代が八千代のスリッパを履いて残したものだった - 金庫の刀の血痕
直記と屋代が金庫に隠した村正の刀に血痕がついていたのは、金庫に入れる前にすでに蜂屋が殺害されていたため。屋代は、金庫に入れることで刀が使えない状態に見せかけ、犯行時刻を遅らせるトリックを仕掛けた - お藤の証言の真実
女中のお藤が蜂屋に水を届けに来たという証言は嘘で、実際は蜂屋と密会しようとしていた。彼女の証言から、蜂屋の実際の死亡時刻が金庫に刀をしまう前であったことが判明する - 「Yachiyo」の文字の秘密
洋館の壁に書かれた「Yachiyo」の文字は、実は「Yashiro」を彫り直したもの。屋代が事件に関与していることを示していた
感想(ネタバレ注意)
『夜歩く』の最大の魅力は、読者を巧みに欺く「叙述トリック」にあります。物語の語り手である「私」こと屋代寅太が、実は一連の凄惨な事件の真犯人であるという結末は衝撃的です。
金田一耕助の登場も、本作では一味違った印象を与えます。通常の作品では事件の解決者として絶対的な存在感を放つ彼が、今回は「信頼できない語り手」の視点から描かれることで、その言動や推理がより際立って見えます。彼が屋代のトリックを見破り、真相を暴いていく過程は、まさに名探偵の面目躍如といったところですが、親友の犯罪を暴くという彼の苦悩もまた、作品に深みを与えています。
ドラマについて
テレビドラマでは、原作の叙述トリックを映像で表現することの難しさからか、独自の解釈や設定が加えられています。古谷一行さん主演の1978年版では、金田一が事件の初期から関与する設定や、屋代と金田一が戦友であるという関係性が強調され、人間ドラマとしての側面が強く描かれました。また、小野寺昭さん主演の1990年版では、屋代が小説家として叙述トリックを仕立てていたというメタフィクション的な要素が取り入れられるなど、それぞれの時代や制作側の工夫が見て取れます。
原作とドラマの違い
『夜歩く』は、これまでに2度テレビドラマ化されています。
1978年版(横溝正史シリーズII・夜歩く)
TBS系列で1978年7月22日から8月5日まで、毎週土曜日22時~22時55分に全3回で放送され、毎日放送と東宝が制作を担当しました。
主なキャストは、金田一耕助を古谷一行、日和警部を長門勇、古神八千代を范文雀、屋代寅太を谷隼人、蜂屋小市を岸田森、仙石直記を村井国夫、仙石鉄之進を伊藤雄之助です。
原作の叙述トリックは反映されておらず、金田一が小金井での事件を最初から見聞している設定や、屋代が鉄之進の甥で古神家の使用人であるなど、原作とは異なる設定が多く盛り込まれています。また、守衛や蜂屋が佝僂ではない、四方太の死体が発見されるなど、独自の展開が加えられています。金田一と屋代が戦友という設定も特徴的で、金田一がお静の世話を引き受ける場面も描かれました。
1990年版(名探偵金田一耕助 夜歩く女)
テレビ朝日系列の「土曜ワイド劇場」枠で1990年9月1日に放送され、にっかつ撮影所とテレビ朝日が制作しました。
金田一耕助を小野寺昭、古神八千代を南條玲子、仙石直記を西岡徳馬、等々力警部を秋野太作、蜂屋小市を加藤善博、屋代寅太を三浦浩一、お柳さまを松尾嘉代が演じています。
このドラマでは、舞台が昭和33年の新潟県西蒲原郡の鬼首村に変更され、佝僂の特徴が左肩の赤痣に変わっています。また、八千 代と守衛の関係性や、お藤・お静の名前が変更されるなど、原作からの改変が見られます。
屋代が叙述トリックに相当する小説を書いていたという設定が加えられ、その結末が原作と同様に計画されていたことが最後に明かされるなど、メタフィクション的な要素も取り入れられています。八千代が直記への復讐のために屋代に協力しますが、屋代の裏切りを知って自殺を図るなど、人間関係の描写も深く掘り下げられています。
余談
本作は1948年(昭和23年)から1949年(昭和24年)にかけて雑誌『男女』で連載され、1950年5月に春陽堂から刊行されました(『男女』は、のちに『大衆小説界』に改題)。
横溝正史氏がE・S・ガードナーの『夢遊病の姪』から着想を得て執筆したといわれており、特に「顔のない死体」というトリックに挑戦した作品です。ただ、連載途中に高木彬光の『刺青殺人事件』が同じトリックを用いたため、作者は物語のデッサンを修正せざるを得なかったという逸話があります。
金田一シリーズにおける「岡山編」のひとつと位置づけられているこの作品は、シリーズの中では比較的評価が分かれる作品です。作者自身は「自選ベスト10」の10位に挙げていますが、これは売れ行きも考慮された結果であると述べています。
物語の舞台となる岡山県鬼首村は架空の地名です。ただし、モデルとなった地域はあるようで、岡山県と鳥取県の県境にある山間部がこれに当たるとされています。また、古神家と仙石家の関係性は、横溝が疎開中に触れた岡田藩とその家老・千石氏(後の仙石氏)の歴史が反映されています。作中に登場する「四人衆様」の百姓一揆の伝説も、実際の「新本義民騒動」が元になっています。
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