アガサ・クリスティーの『検察側の証人(原題:The Witness for the Prosecution)』は1925年に掲載された短編小説です。この作品はアガサ・クリスティーの数あるミステリーの中でも評価が高く、巧妙なプロットと衝撃的な展開が魅力です。「法廷劇の最高傑作」と称されることもあります。この記事では、あらすじや登場人物、ネタバレ、感想、原作小説と戯曲版や映画版の違いなどをまとめています。
あらすじ
裕福な独身女性エミリー・フレンチが自宅で撲殺される。容疑者として逮捕されたのは、交際していた青年レナード・ボールだった。レナードは失業中で金銭に困っており、事件直前には被害者が全財産をレナードに譲るという遺言書を作成していた。動機の状況証拠から、レナード圧倒的に不利な状況に追い込まれる。
レナードの弁護を引き受けたのは、経験豊富な勅選弁護士ウィルフリッド・ロバーツ卿だった。ウィルフリッド卿はレナードの純朴そうな態度に好感を抱き、無実を信じる。
レナードは事件発生時刻には自宅にいたと主張し、妻のロメインが証人だと語る。ウィルフリッド卿はロメインを呼び出すが、ウィルフリッド卿の予想に反して、ロメインは夫レナードに冷淡で、「レナードを愛したことは一度もない」「夫からアリバイ工作を頼まれた」などの発言を繰り返す。さらに、「レナードとの結婚は正式なものではない」とまで言い放つ始末で、ウィルフリッド卿は妻のアリバイ証言を諦めるしかない状況となる。
裁判が始まり、検察官マイアーズが証拠を突きつけてレナードを追い詰める。ウィルフリッド卿は巧みな弁護で矛盾を突き、巻き返しを図る。そのさなか、検察側の証人としてロメインが出廷する。彼女は宣誓のもと、「レナードが血染めの上着を洗うよう頼んだ」「レナードがエミリー・フレンチを殺したと告白した」といった、レナードに淡々と不利な証言をする。この証言により、レナードの有罪はほぼ確実なものとなる。
ロメインの証言に違和感を拭いきれないウィルフリッド卿は、彼女の裏に何かあると直感する。そんな卿のもとに、ロメインの過去の秘密を明かすという匿名の女性からの手紙が届く。手紙に指定された場所へ赴いたウィルフリッド卿の前に現れたのは、顔をベールで覆った老婆だった。その老婆は、ロメインが実は別の男と結婚しており、その男を心から愛していること、そしてその証拠となる手紙をウィルフリッド卿に渡す。
後日、ウィルフリッド卿は法廷で老婆から得た証拠を提出し、ロメインの偽証を暴いてみせる。追い詰められたロメインは偽証を認め、これによりレナードは無罪となる。ロメインは偽証罪で逮捕され、法廷は閉廷。しかし、ウィルフリッド卿は拭いきれない疑問を感じていた。
登場人物
- ウィルフリッド・ロバーツ卿
この物語の実質的な主人公。ベテラン弁護士。鋭い知性と経験を持つ一方、人間性豊かで、正義感も強い。レナードの無実を信じ、弁護に全力を尽くす。ロメインの不自然な証言にいち早く疑問を抱き、真相を探ろうとする - レナード・ボール
容疑者の青年。富豪女性殺害の容疑で逮捕される。無邪気で純朴な印象 - ロメイン・ボール(またはローマイン・ハイラー)
レナードの妻。検察側の証人として夫に不利な証言をする - エミリー・フレンチ
被害者。裕福な独身女性。孤独な人生の中でレナードに惹かれ、彼に全財産を譲る遺言書を残した - マイアーズ検事
検察官。レナードを起訴する。ウィルフリッド卿と法廷で鋭い論戦を繰り広げることになる
ネタバレ
レナードが無罪になった後、ウィルフリッド卿はロメインと会話し真相を知ります。
実は、レナードこそがエミリー・フレンチを殺害した真犯人でした。ロメインはそれを知った上で、愛する夫を救うため、あえて検察側の証人として法廷に立ち、嘘の証言をしているかのようにみせていました。「妻としての証言は、夫への愛情ゆえに信頼性が低いと見なされやすい」という法廷の常識を逆手にとったトリックだったわけです。おおまかな流れは以下の通りです。
- まず、夫に不利な本当のこと(例:レナードが血のついた服を洗ってくれと頼んだ、アリバイ工作を依頼したなど)を証言する
- その後、自分が別の男と結婚しているという偽の証拠(匿名の手紙や老婆の正体)を謎の老婆に変装してウィルフリッド卿に渡し、その証拠によって「自分の先の証言はレナードを陥れるための偽証だった」と断定されるように仕組む
- 最終的に、ロメインは偽証罪に問われるものの、偽証が暴かれたことで、それまで彼女の不利な証言しか無かったレナードの疑いは晴れ、無罪を勝ち取る
結末
無罪を勝ち取ったレナードですが、安堵するどころか、ロメインに感謝するそぶりすらみせず、むしろ「君はもう用済みだ」とばかりに、別の若い女性と結婚すると宣言し、ロメインを罵倒します。ここで、これまでウィルフリッド卿が抱いていた純朴な青年というレナードのイメージは完全に崩壊し、冷酷で残忍な本性が露わになります。
原作小説と戯曲版・映画版の違い
1953年に、クリスティー自身が戯曲として書き直しています。この戯曲版のラストシーンでは、レナードに裏切られたロメインが激しい憎悪にかられ、隠し持っていたナイフでレナードを刺し殺すという結末になっています。
ちなみに、戯曲版はロンドンのウエストエンドで初演され、大成功を収めています。クリスティーが手掛けた戯曲の中でも特に評価が高く、「(クリスティーの戯曲の中で)最高傑作」と評されることもあります。
1957年に名匠ビリー・ワイルダー監督によって制作された映画『情婦』は、戯曲に忠実でありながら、映画ならではの演出やキャラクター描写が加わっています。なお、映画原題は小説や戯曲と同じ『The Witness for the Prosecution』ですが、邦題は『情婦』になっています。作品の核心である「検察側の証人」というテーマがわかりづらく、誤解を招きやすいという指摘もあるようです。
アガサ・クリスティーの戯曲版とビリー・ワイルダー監督による映画版『情婦』の違いは以下の通りです。
- ウィルフリッド卿のキャラクター
映画版では、ウィルフリッド卿が心臓病を患い、専属の看護婦(エルザ・ランチェスター演じるユーモラスで口うるさいキャラクター)が付き添うという設定が追加されています。原作戯曲で卿の健康状態は特に触れられていません - 物語の視覚化
映画では、レナードとロメインのドイツでの出会いや、レナードとエミリー・フレンチの関係など、原作では会話で語られるのみだった背景が回想シーンとして具体的に映像化されています。また、第三幕の「匿名の手紙の差出人との接触」の場面も、戯曲では弁護士事務所で行われますが、映画では駅のパブに変更されています - 結末
最も大きな違いは結末です。戯曲版では、レナードを刺し殺したロメインが、その場に崩れ落ちて幕となります。しかし、映画版では、ロメインはレナードを刺した後も生き残り、殺人容疑で警察に連行されて終わります(映画倫理規定への配慮があったといわれています)
感想と考察
『検察側の証人』は、アガサ・クリスティーの数ある作品の中でも、その緻密なプロットと予測不可能な展開で抜きん出ています。より具体的にまとめると下記のようになります。
- 法廷劇としての完成度
弁護側と検察側の駆け引き、証言の信憑性をめぐる攻防など、法廷シーンが非常にスリリングに描かれています。ウィルフリッド卿と一緒に登場人物たちの言葉の裏に隠された真実を探っているような感覚になります - 巧みな「ミスリード」
クリスティーの巧みな文章力により「レナードは無実だろう」「ロメインはなぜ夫に不利な嘘の証言をするのか」という思い込みが植え付けられます。また、ロメインの偽証が実はレナードの犯行を語った真実であったという二重構造も傑作と称される理由のひとつです - 伏線の妙
序盤のロメインとウィルフリッド卿の会話の中に、レナードの真の姿やロメインの意図を暗示する伏線がいくつも隠されています。例えば、レナードが遺産目当てで動いていたことをロメインが知っていたかのような発言などです - 人間性の深掘り
ロメインの愛するがゆえに極限まで自分を犠牲にする覚悟、そして裏切られた時の絶望と憎悪が印象に残ります。また、レナードの底知れない冷酷さと自己中心的さも深い影を落としています