『女怪』(じょかい、または、にょかい)は、日本の推理作家・横溝正史氏によって執筆された短編推理小説です。1950年(昭和25年)9月に文芸雑誌『オール讀物』に掲載され、〈金田一耕助シリーズ〉の一編として知られています。本作は、名探偵・金田一耕助が特定の女性に対して恋愛感情を抱き、その感情が事件の背景や彼の行動に深く関わるという、シリーズ全体を通しても非常に珍しい、そして重要な位置を占める作品です。この記事ではあらすじ、ネタバレ、登場人物、感想などをまとめています。
あらすじ
昭和2x年(作中の記述から、おおよそ1948年頃と推測されます)の初夏から夏にかけて、『夜歩く』や『八つ墓村』といった難事件を解決し、探偵として十分な報酬を得た金田一耕助は、彼の友人であり探偵小説家である「先生」(本作の語り手)と共に、伊豆半島の鄙びた温泉場Nに滞在していた。
滞在先の宿の近くには、「狸穴(まみあな)の行者」と呼ばれる怪しげな祈祷師、跡部通泰が住み着き、修行場として利用している場所があった。この修行場は、元々は持田電機という会社の社長であった持田恭平の別荘だったが、持田恭平はすでに亡くなっていた。
持田恭平の妻である持田虹子は銀座で「虹子の店」というバーを経営しており、実は金田一が密かに、しかし深く思いを寄せている女性だった。
温泉場Nでの静養中、金田一たちは、近隣の墓地で墓荒らしが頻繁に発生しているという奇妙な噂を耳にする。退屈していた二人は、興味本位で跡部通泰の修行場を見物するついでに墓地へ足を運ぶ。そこで彼らは、跡部通泰らしき人物が、蜜柑箱ほどの大きさの木箱を抱え、何かを隠すようにして墓地から立ち去る場面を目撃する。
不審に思った二人が墓地を調べると、荒らされた墓が一つみつかる。墓石に刻まれた名前は、他ならぬ持田恭平のものだった。墓はひどく荒らされており、棺から露出した人骨からは頭蓋骨がなくなっていた。金田一は跡部が持ち去った木箱の中に恭平の頭蓋骨が入っていたのではないかと疑い始める。
滞在を終え、東京に戻った金田一は、「先生」と再会した際に、以前とは打って変わってひどく憔悴した様子をみせる。どうやら、金田一が独自に調査を進めた結果、彼が思いを寄せる虹子が、あの跡部通泰に恐喝されているらしいことが判明したのだった。金田一は、虹子が夫である恭平を殺害し、その秘密を跡部に握られて脅されているのではないかと考え、深く苦悩する。
そんな中、虹子には賀川春樹という新しい恋人が現れる。賀川は貿易商で、元子爵という華やかな経歴を持つ人物だった。金田一は虹子の幸福を心から願い、彼女の幸せを脅かす跡部の正体と、彼が握る秘密を何としても突き止めようと、さらに調査を進めていく。
それからしばらく経ったある日、跡部通泰が脳溢血で急死したという知らせが入る。これで、虹子の周囲では夫の恭平に続いて跡部と、二人の男性が脳溢血で亡くなったことになる。跡部の死によって事件は解決に向かうかにみえましたが…。
さらにひと月あまりが過ぎた頃、「先生」のもとに、遠く北海道から金田一耕助からの手紙が届く。その手紙には、伊豆と東京で起きた一連の事件の驚くべき真相と、そして金田一自身がたどり着いた悲劇的な結末が詳細に記されていた。
登場人物
- 金田一耕助(きんだいち こうすけ)
本作の主人公である私立探偵。普段はぼさぼさの髪にヨレヨレの着物という風貌。本作では持田虹子に深く心を奪われ、人間的な苦悩をみせる - 「先生」
探偵小説家であり、本作の語り手。金田一耕助の古くからの友人で、彼の事件簿を執筆しているという設定。金田一の人間的な弱さや苦悩を温かく見守る。ドラマなどには登場しない場合が多い - 持田虹子(もちだ にじこ)
銀座の高級バー「虹子の店」のマダム。若くして夫を亡くした美しい未亡人。金田一耕助が心底惚れ込んだ女性の一人 - 持田恭平(もちだ きょうへい)
虹子の亡夫。持田電機の創業者で、かつては伊豆に別荘を持っていた。墓を荒らされる - 跡部通泰(あとべ みちやす)
「狸穴の行者」と名乗る謎めいた祈祷師。かつての持田恭平の別荘を修行場としている。虹子を恐喝しているらしい - 賀川春樹(かがわ はるき)
虹子の新しい恋人。貿易商を営む元子爵。紳士的で魅力的な人物 - おすわ
金田一と「先生」が滞在した伊豆の温泉場の宿屋の女将。地元の事情に詳しい
ネタバレ
持田恭平の死は自然な脳溢血ではありませんでした。彼の妻である持田虹子が、夫からの度重なる激しい暴力(DV)に耐えかね、恭平の耳の穴に細い針を突き刺して殺していました。この殺害方法であれば、外見からは脳溢血と見分けがつきにくく、当時の医師(長谷川善三)も脳溢血と診断していました。
しかし、「狸穴の行者」こと跡部通泰は、何らかの方法でこの殺害方法に気づき、恭平の墓から頭蓋骨を盗み出して針の痕跡を確認しました。頭蓋骨には折れた針が残ったままになっていたわけです。そして、この秘密をネタに虹子を恐喝し、金銭だけでなく、虹子に肉体関係を強要していました。
虹子は、跡部通泰の脅迫から逃れ、愛する賀川春樹と新しい人生を始めるために、跡部を通泰を殺害することを決意します。彼女は、かつて夫を殺したのと同じ手口、つまり跡部通泰の耳の穴に針を突き刺し、彼の死を脳溢血に見せかけました。
結末
金田一の捜査によって跡部通泰と賀川春樹が同一人物であったという事実が明らかになります。賀川春樹は、虹子が心から愛し、救いを求めた紳士的な貿易商であると同時に、彼女の過去の秘密を握り、冷酷に恐喝し、いたぶっていた「狸穴の行者」跡部通泰でした。
金田一は、この衝撃的な真実を突き止め、虹子に伝えます。自分が愛し、その手で救ったはずの相手が、自分を地獄に突き落とした張本人であったという残酷な事実に、虹子は耐えきれませんでした。金田一の手紙には、真相を知った虹子が絶望のあまり自殺したことが記されていました。
金田一は、虹子の自殺を知り、深い傷心を負います。
手紙の最後には、「先生ご心配にならないで下さい。ぼくは決して、自殺などしないから。……もうひと月ほど放浪したうえで、帰郷することにします。」と書かれており、彼の受けた精神的なダメージの大きさがうかがえます。
原作とドラマの違い
横溝正史の短編小説『女怪』は、これまでに3度テレビドラマ化されています。原作の基本的な筋立てや主要人物は共通していますが、それぞれのドラマ版で独自の解釈や設定の変更が加えられています。原作の主な設定は下記の通りです。
ネタバレ注意
- 舞台
伊豆の温泉場N、銀座 - 語り手
金田一耕助の友人である探偵小説家「先生」。解決編は金田一からの手紙という形式 - 金田一と虹子の関係
金田一が虹子に一方的に恋愛感情を抱いている - 墓荒らし
持田恭平の墓が荒らされ、頭蓋骨が盗まれる。跡部通泰が関与 - 事件の核心
虹子による夫・持田恭平の殺害(針を使用)、跡部通泰による虹子への恐喝、虹子による跡部通泰の殺害(針を使用)。跡部通泰と虹子の恋人・賀川春樹が同一人物であるという真相。虹子の自殺 - 金田一の描写
虹子への思いに苦悩し、事件の真相に傷つき、旅に出る
テレビドラマ版の比較
原作と各ドラマ版の主な違いを比較します。以下の表は主な違いをまとめたものであり、細かな設定や描写の差異は他にも存在します。
項目 | 1992年版 (古谷一行主演) |
1996年版 (片岡鶴太郎主演) |
2022年版 (池松壮亮主演) |
---|---|---|---|
放送年 | 1992年 | 1996年 | 2022年 |
金田一耕助役 | 古谷一行 | 片岡鶴太郎 | 池松壮亮 |
「女怪」の読み | じょかい (推定) |
にょかい | じょかい (推定) |
語り手 | なし (金田一視点主体) |
硯川酒肴 (探偵小説作家) |
「先生」 (清水ミチコ) |
主な舞台 | 京都・京都近郊の山村(周山村) 大阪 |
東京(銀座) 岡山(吉備温泉) |
伊豆の温泉場Nと銀座 (原作に準拠) |
金田一と虹子の関係 | 学生時代の恋人 | 虹子の方も金田一に気がある設定 | 原作に準拠 (金田一の一方的な思い) |
おすわの設定 | 虹子の弟・谷村貞夫を育てた人物 | 原作に準拠 (宿の女将) |
原作に準拠 (宿の女将) |
墓荒らしの犯人 | 虹子の弟・谷村貞夫 | 不明 (原作に準拠か) |
跡部通泰 (原作に準拠) |
追加エピソード 追加人物 |
虹子の両親の自殺(持田の策略) 跡部による貞夫の殺害、修業場管理人・寺坂の殺害 |
『霧の中の女』の村上ユキ(ホステス)と長谷川善三(医師/恐喝者)の登場 長谷川殺害後の「鉄火のテッちゃん」殺害 |
なし (原作の筋立てに忠実) |
持田殺害の動機 | DVに加え、両親の復讐 | DV | DV (原作に準拠) |
同一人物設定 (跡部=賀川) |
あり (原作に準拠) |
あり (虹子は気づいた上で跡部を殺害) |
あり (原作に準拠) |
結末の描写 | 原作に準拠 (手紙形式) |
原作に準拠 (手紙形式) |
金田一の心象風景として「ありえない」場面を挿入 (電話と手紙の同時性、虹子の目の前での自殺、金田一の懸垂など) |
その他特筆点 | 等々力警部が大阪府警所属 前半の展開が原作と大きく異なる |
長谷川善三が医師として死亡診断書を偽装した設定 | 原作のセリフやナレーションを多用 独特の映像表現 |
まとめ
原作の『女怪』は、金田一耕助の人間的な苦悩と悲恋、そして残酷な真相が静かに描かれる点が特徴です。語り手である「先生 」の視点と、金田一からの手紙という形式が、物語に独特の余韻を与えています。
1992年版は、舞台を関西に移し、おすわや虹子の弟といった人物に新たな設定を加えて、人間ドラマの側面を強調しています。 原作の後半のセリフを活かしつつも、複数の殺人事件を追加するなど、サスペンス要素を強めたアレンジが見られます。
1996年版は、「にょかい」という読みを採用し、語り手を変更したり、『霧の中の女』の登場人物を絡めたりと、他の横溝作品 との繋がりを持たせた点が特徴です。長谷川善三の設定変更や、虹子が真相に気づいた上で行動するなど、虹子のキャラクターにも深みが加えられています。
2022年版は、原作のセリフや筋立てに非常に忠実でありながら、映像表現や演出に独特の解釈を加えています。特にラストシー ンの心象風景の描写は、原作の静かな余韻とは異なる、実験的でシュールな表現となっています。
どのドラマ版も、原作の持つ「金田一耕助の悲恋」というテーマを基にしつつ、それぞれの時代の演出や解釈によって異なる魅 力を持つ作品となっています。
感想
『女怪』は、横溝正史の描く怪奇性や猟奇性は控えめですが、シリーズの中でも特に文学性の高い、忘れられない一編といえるかもしれません。
金田一耕助が愛した女性の一人である銀座のバーのマダム・持田虹子が登場し、彼女を巡る複雑な人間関係と悲劇的な事件が描かれています。この作品で金田一が経験する出来事は、彼のその後の人生観や探偵としてのスタンスに大きな影響を与えたとされており、彼のパーソナルな部分に深く踏み込んだ異色の傑作として評価されているようです。
普段は事件そのものに没頭し、自身の感情を表に出すことが少ない金田一が、一人の女性、持田虹子に対してこれほどまでに強い恋愛感情を抱き、その恋が悲劇的な結末を迎える様は、新鮮な驚きと同時に深い哀しみも感じました。
金田一の虹子への思いは、単なる好意を超え、彼女の過去の秘密を知りながらも、彼女の幸福を願い、彼女を苦しめる存在を排除しようとする献身的なものです。しかし、その献身が、皮肉にも虹子にとって最も残酷な真実を突きつける結果となってしまうのが、この物語のもっとも悲劇的な一面ではないでしょうか。
「先生」の視点から、金田一の憔悴ぶりや、事件解決後の深い傷心が描かれることで、金田一耕助という探偵が、単なる推理機械ではなく、感情を持った一人の人間であることが強く伝わってきます。特に、手紙の最後の一文は、この事件が金田一の心にどれほど深い爪痕を残したかを物語っており、彼がこの後、女性との関係を避けるようになり、生涯独身を貫くことになった理由の一つとして、この『女怪』での経験が挙げられることが多いのも納得できます。
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