『人面瘡』は、日本の推理作家・横溝正史による短編推理小説で、〈金田一耕助シリーズ〉の一作です。元々は金田一が登場しない形で発表された作品が、後に改稿されシリーズに組み込まれました。物語は、静養のため岡山県の湯治場を訪れた名探偵・金田一耕助が、そこで発生した奇妙な事件に巻き込まれることから始まります。この記事では、あらすじ、ネタバレ、登場人物、感想などをまとめています。
あらすじ
金田一耕助は静養のため、岡山県と鳥取県の県境にある静かな湯治場「薬師の湯」を訪れる。
深夜1時頃に金田一は目を覚まし、月明かりのもと、宿の裏手から渓流へと降りていく若い女を目撃する。女はそのまま下流の「稚児が淵」の方へと姿を消した。
同じ夜の2時過ぎ、宿の若旦那である貞二が磯川警部を呼びに来る。貞二に起こされた金田一は、先ほどの女が睡眠薬で自殺を図ったことを知る。女は宿の女中で松代という名前だった。
磯川警部の迅速な処置により松代は一命を取り留めた。死ぬつもりだった彼女は遺書を残しており、そこには「わたしは、妹を二度殺しました」という不可解な内容が書かれていた。遺書にはさらに、妹・由紀子の呪いによって、松代の右の腋の下におぞましい人面瘡(人の顔の形をした腫物)が現れて自分を責めさいなむ、とも記されていた――。
そして、遺書の内容を裏付けるかのように、由紀子の死体が「稚児が淵」に浮かんでいた。
金田一たちが「天狗の鼻」と呼ばれる場所(淵を見下ろすことができる場所)へ向かう途中、同行していた貞二が危うく崖から転落しそうになる。そこには、不用意にもたれると転落するような仕掛けが施されていた。
溺死した由紀子は裸だった。裸という点については、普段から泳いでいたということなので、それほど不審視されなかった。が、由紀子が着ていたはずの着物がどこにも見当たらないという。
松代は自分が夢遊状態に陥り、由紀子を殺したと思い込んでいるようだった。しかし、由紀子の死亡推定時刻である夜9時頃、松代には確かなアリバイがあった。
磯川警部によれば、松代は昭和20年3月の大空襲で焼け出され、郷里の岡山へ疎開してきたが身寄りもなく、「薬師の湯」に辿り着き女中として働くようになったという。その後、美人で働き者の松代は宿の御隠居・お柳に気に入られ、息子・貞二の嫁にと考えられるようになったらしい。昭和22年秋にお柳が病に倒れ、貞二がシベリアから復員。松代は貞二に惹かれたようだが、松代が自身の素性を頑なに語ろうとしないことが問題となっていた。
そこへ、神戸や大阪で水商売をしていた妹の由紀子が突然現れた。
松代は岡山県O市の没落した老舗菓子司・福田屋の長女だった。松代はかつて神戸の葉山家の次男・譲治と婚約し、花嫁修業のために葉山家に預けられていたが、大空襲で譲治は焼死し、松代は行方不明になっていた。
松代の確かな素性が判明したことは喜ばしいことだったが、なぜそれを隠していたのかがお柳には腑に落ちなかった。
薬師の湯に居座った由紀子は貞二を誘惑して関係を持ち、女あるじのように振る舞うようになる。そんな折、右の頬に大きな火傷の痕がある田代啓吉という男が湯治場に現れる。由紀子は田代の出現に怯え、ヒステリックになり、貞二も遠ざけるようになった矢先に死体が発見されたのだった。
回復した松代は、自分が由紀子を殺したと思ったのは、以前にも夢遊状態で譲治と由紀子を殺したことがあるからだと告白する。由紀子は幼い頃から姉のものを何でも欲しがる癖があり、松代は妹に対して不思議な罪業感から何でも言うことを聞いていた。実家が傾き由紀子が松代の元に預けられると、由紀子は姉の婚約者である譲治を誘惑し関係を持つ。大空襲の夜、夢遊病を起こした松代が気づくと、血まみれの譲治と由紀子が倒れていたという……。
登場人物
- 金田一耕助
- 私立探偵。東京での事件解決後、岡山で静養中に新たな事件に巻き込まれる。鋭い観察眼と推理力で事件の真相に迫る
- 磯川常次郎
- 岡山県警警部。金田一とは旧知の仲で、彼を信頼し捜査協力を依頼する。親戚づきあいから湯治場周辺の事情にも詳しい
- 貞二
- 薬師の湯の一人息子。シベリアからの復員兵。松代に惹かれ、婚約する。由紀子にも誘惑される
- お柳
- 貞二の母。薬師の湯の御隠居。松代を気に入り、嫁に迎えたいと考えていた。由紀子の出現に心を痛める
- 松代
- 薬師の湯の女中。旧家・福田屋の長女。夢遊病と腋の下の人面瘡に悩まされる。妹・由紀子に対して強い罪業感を抱いている
- 由紀子
- 松代の妹。水商売をしていた。姉のものを何でも欲しがる性分。貞二を誘惑し、湯治場に波乱をもたらす。稚児が淵で死体となって発見される
- 田代啓吉
- 由紀子の古い知人。顔に大きな火傷の痕がある。由紀子との過去の関係や、事件に関わる重要な証言をする。
- 葉山譲治
- 松代の元婚約者。大空襲で焼死したとされる。松代と由紀子の過去の出来事の中心人物
ネタバレ
由紀子は事故ではなく、湯治場の女将であるお柳によって殺害されています。
お柳は眼病を患っていた由紀子に洗眼を装わせ、耳盥に顔をつけた由紀子を上から押さえつけて溺死させました。そして死体を裸にして窓から渓流に落とし、それが稚児が淵へ流れ着いています。なお、由紀子が最後に着ていた衣類は押し入れに隠してありました。
お柳の動機は、由紀子が貞二と松代の結婚を妨害し、二人の将来を台無しにすることを恐れたためです。
由紀子が貞二を誘惑して関係を持ったこと、そして松代が由紀子に対して異常な罪業感を抱き、由紀子の言いなりになっている状況を見て、お柳は自分が生きているうちに由紀子を排除するしかないと決断しました。
松代が遺書に記した「妹を二度殺した」という言葉は、彼女の夢遊病と過去の出来事による誤解です。
一度目は大空襲の夜、由紀子が松代の婚約者・譲治と無理心中を図り死にきれなかった現場に、夢遊状態の松代が現れ、由紀子が松代に罪をなすりつけようとしたことから、松代は自分が二人を殺したと思い込んでいました。二度目は由紀子の死体を発見した際に、再び夢遊状態の自分の仕業だと思い込んだためです。
当時、由紀子は譲治だけではなく、田代という男と関係を持っていました。大空襲の夜、由紀子は譲治との関係が露見し実家へ連れ戻されそうになり、姉に取り戻されるくらいならと譲治と無理心中を図ったが死にきれずにいました。そこに田代が現れ、さらに夢遊状態の松代が現れたため、由紀子は松代に罪をなすりつけることを思い付いています。
由紀子の弱みを握った田代は、薬師の湯へ来てからも由紀子と関係を続けていました。そんな田代を始末するために由紀子が仕掛けたのが木柵です(貞二が転落しそうになった柵)。田代は泳げないので落下すれば死亡するはずでした。
人面瘡の医学的解釈と心理的影響についてですが、まず人面瘡は、金田一の推測では医学的な現象である畸形腫(奇形腫)の可能性が高いということになっています。これは、双生児の一方がもう一方の体内に吸収されて腫瘍となったもので、顔のように見えることもあるとのこと。
松代が由紀子に対して抱いていた根拠のない罪業感は、実はこの吸収された双子の妹に対する無意識の感情だったと考えられます。この医学的な可能性が示唆されることで、物語の怪奇性が現実的なものへと落とし込まれます。
結末
最終的に、お柳は静かに息をひきとります。
事件解決後、金田一は松代に人面瘡をO大学のT先生に診てもらうことを勧めます(T先生は双生児の一方が体内に残る事例に関わっており、金田一は松代の人面瘡も同様のケースだと推測した)。
後日、貞二からの手紙で、手術が成功し、松代と年内に結婚する予定であることが報告されます。
原作と映像化作品
本作の原型は、金田一耕助が登場しない形で発表された作品であり、舞台も信州でした。金田一シリーズとして改稿される際に、舞台が岡山県に変更され、金田一と磯川警部が探偵役として配置されました。
2003年に放送された古谷一行主演のテレビドラマ版は、原作の基本的な設定(湯治場、人面瘡、姉妹の確執)は踏襲しつつも、ストーリーや登場人物に大幅なアレンジが加えられています。原作の持つシンプルながらも深い人間心理の描写に加え、ドラマ独自のサスペンス要素や人間関係が盛り込まれており、原作とはまた違った味わいの作品となっています。特に、原作では示唆に留まる人面瘡の心理的な影響が、ドラマではより強調されている点などが挙げられます。
感想
横溝正史の短編の中でも、個人的には、印象深い作品の一つです。夢遊病や人面瘡といった不気味な要素が物語の核になっています。それでも、単なる怪奇譚に終わらず、登場人物たちの複雑な心理や過去の因縁が丁寧に描かれています。特に、姉・松代と妹・由紀子の間の歪んだ関係性や、松代が抱える深い罪業感などが特徴ではないでしょうか。
犯人の意外性はもちろんのこと、人面瘡という怪奇な現象に科学的な可能性を示唆する結末は、横溝正史の作品の中でも独特な読後感があります。短編ながら、濃密なストーリーと鮮烈なイメージを残す作品だと思います。
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